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2011年7月に作成された記事

2011年7月26日 (火)

なにが起こるかはわからないが

 政府の原発事故の対応は、国民の生活や健康を守るという方向ではなくて、過去の国家の政策の結果起きたことを糊塗して、軽く問題のないものと見せる虚偽の発表を繰り返していることが見え見えですから、これでは国民には信ずるべき対象や根拠は与えられず、安心した生活が送れません。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/13228

 週刊現代が独自の調査をしたという記事が上のネットにも掲載されていますが、いろいろなデータが出てきても、これにも疑心暗鬼にならざるを得ない心理が働きます。

 広瀬隆さんが、東電やその背後の事故の責任者を刑事告発していますが、それらは全く報道もされないで、反原発の煽動者という扱いで、政府やマスコミは臭いものには蓋をするだけでなく、信ずるに足りない煽動者扱いをしようとしているようです。

 これだけ大きな原発事故を起こしたら、検察はただちに動いて責任あるもの取り調べるのは当然ではないかと私は思っていましたが、被害者はあっても加害者はどこにもいないという日本の現状はまさに破綻した国家だといわざるを得ないですね。

2011年7月22日 (金)

俳優山本太郎の福島取材特集ニュース番組

 山本太郎さんは、お母さんが東京楽健法研究会に何回か楽健法の勉強に来られたことがあり、原発事故に取り組んで所属する事務所を離れたとか報道され、私も気にかけている行動する人のひとりです。

 

 政府の対応が現実に即していかないことに国民はいらだっても、政府がにわかに変わることは期待できません。マスコミも政府よりで報道はどこかでよりわけられ規正されたものしか流されず本当の批判力はありません。私たちはどこへ向かうのか、先行きには悲劇的な様相しか想像できない場に国民を置き去りにして平然たる政府とはなきに等しいです。

 

2011年7月14日 (木)

菅さんの脱原発

 今朝、菅総理が脱原発を表明したというニュースが出ましたが、日本の総理として行政の方向として表明したのではなくて、一個人の思いつきの発言ぐらいにしか受け取られないという軽さがあります。福島第一原発の事故後か浜岡原発の停止を表明したときにでも、脱原発の表明をすればもっと世論が受け入れてくれたかも知れませんが、ここまで支持率が落ちてから脱原発を表明しても、人気回復をはかる低次元の発言だとしか受け取れない。

 日本には、多くの嘘がまかり通っている現実があります。日本の憲法も、立憲の思想を無視して、軍隊を持ち、軍隊ではなくて自衛隊なのだ、などという論理をふりかざすとだれもこれをあやしまないばかりか、正当性さへ備えてきて、憲法の精神が絵空事になってしまっています。憲法は空洞化されたまま、現実に合わせて改憲することもしない矛盾をだれもあやしまないというのが、日本人の現実対応の仕方です。

 菅総理の発言はいまや狼少年のごとく、次々と思いつきの発言を繰り返しているので評判が悪くなっているのですが、脱原発という発言を、思いつきの現実性のない発言ではなくて、実行しうる発言であり、この発言を機に、本当に梶を切り替え、脱原発という方向性へ向かわせる必要があります。

 脱原発を望む何割かの国民がこの発言を支持して、支持率の調査があったときに、菅総理の支持を表明して、支持率が80%ぐらいに一気にあがれば、脱原発が現実味を帯びてくることだろう。

 菅さんやめるなというシュプレヒコールをしようではないか。

 代替の電力はその気になれば一気に引き上げる国力は持っている経済大国の日本である。原発推進派がいかに世論を操ろうとしたところで、福島の放射能の被害の実態は隠しおおせるものではなく、未来のために、この軽率菅総理発言を、本気に取り組ませる政策として、菅さんを見直してみたらどうであろうか。


        以下は2011/07/15に追記です

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110715-OYT1T00099.htm

菅総理の脱原発発言の火消しに閣僚たちが奔走しているという記事です。

脱原発は平和憲法の理念のように、あってはならないものとして原発を位置づける理想として提唱するだけでなく現実のものとしていかなくては、戦争でもないのに、戦争以上に平和を乱す魔の存在が原発なのです。今後、脱原発などを公然と提唱する首相など日本に出現しないかも知れない。脱原発方向へと既成事実を作ってすすめていく契機になるように流れがなったほうがいいというのが、私の今朝の思いである。

2011年7月12日 (火)

7月7日の東光寺本堂でもコラボ インド音楽

 毎年9月にマドゥ・プリヤさんをお迎えして奉納舞踊を公演していますが、今年は北田信さんがダンスと同じ演目のカーリダーサというインド音楽を開幕に演奏してくれました。

 

 その後マドゥ・プリヤさんのインド舞踊と宥厳和尚の「がらんどうは歌う」の一人芝居。
 音楽をyoutubeへアップしました。

2011年7月 6日 (水)

雨季という詩を書いたころ

 このブログに祖母の50回忌に帰郷したことを書いたが、祖母がみまかったのは50年前の6月9日で、祖母の死を私が知ったのは、九州の小中学校などを児童劇をしながら巡業していた最中であった。雨季という私の初めての詩集には、25歳の時に児童劇団の旅回りの公演のことを詩に書いたのだが、祖母の死んだことは母からもらった手紙で知った。
 それを書いたのが以下の詩である。

        雨   季 


   その日
   祖母がみまかったという母の便りをもらった。
   金釘流の文面によれば
   祖母の死を知らずに二十日になる。
   雨季もいまが盛りとばかり
   その夜もちいさな宿に降りしきった。
   なにもかも
   わたしの心までも濡れていると感ぜられた。
   となりの室に老人がいた。
   のびきらぬ無骨な指でお金を数えたり
   行李から小箱へと
   薬をつめかえていたりした。
   黄色い灯の下で
   老人は無心にそれをやっている。
   その周囲だけがふしぎにからっとしている。
   こんなふうにわたしは
   祖母のたち働く姿をながめたことがある。
   記憶のなかの祖母のまわりも
   この老人のように
   からっとしたものがとりまいている。
   わたしは
   遠く旅をしてきたことを
   まぎれもなくかなしんでおり
   祖母の死も
   わたしの故のように思われた。
   今宵
   老人をぽつねんとみつめているわたしには
   翌日からも
   なおながい旅がつづくのだった。

 


 そのときに母から送られてきた手紙を残してあったのでここで紹介しておく。

Mamaletter5

2011年7月 3日 (日)

映画「春との旅」を観る

 パソコンでテレビや映画を見るひとも多くなったことと思うが、私はパソコンでテレビは見ない。パソコンでテレビを見ながら同じ画面で他の作業、原稿を書くなんてことはできないし、テレビは常時見たいとは思わないからである。

 先日からテレビを置いてある庫裡の部屋から、積み上げてあった書籍、机に常時置いてあったノートパソコンを、書斎(パソコン部屋)へ移動させた。居間でパソコンをしながらテレビもつけて、ながら作業の傾向があったので止めることにしたのである。お陰で居間はすっきりして、来客があっと驚く。本来お寺はすっきりと片付いているというのがいいとわかっていながらそうしていなかったのは、よろしくない。

 最近はiphone4を使うようになったので、パソコンの代用になるかとおもわないでもなかったが、検索や本の注文ぐらいはできるが、原稿はこれで書く気にはならない。写真を写してfacebookに投稿するなんてことは便利だと思うが、そのお陰で写真機をまるで使わなくなった。至便であるのはいいことだが、写真の画質とか、写真にうるさい要求をもっているひとにはこういう機能に画質を落とされてまで使うのは我慢がならないだろうと思う。

 昨日映画のダウンロードレンタルを試みた。appleのituneで映画レンタルを開いてみると仲代達也の主演する「春との旅」という映画が目にとまったので、レンタルした。10分ほどでファイルをダウンロードすると、30日の間にいつでもみられるが、一旦ファイルを起動すると48時間以内に見なくてはならないことになっている。

7/3午後2時過ぎにituneを開いてみると、ファイルは消失していた。

Harutonotabi_2_4

 北海道の貧しそうな漁村に暮らす祖父と18歳の孫、元は漁師の祖父とその孫が言い争って祖父が家を怒りながら飛び出してくるところから映画は始まる。孫の春(徳永えり)はどこにでもいそうながに股歩きのさえない女の子を好演している。仲代ははまっているがややアクションがオーバー気味でインテリ風なところが匂い、漁師の野趣に欠けるところがあるが、徳永えりがよくこれを支えて見応えのある映画に仕上がっている。

 出来のいいロードムービーである。舞台が東北なので、今回の津波で流されてしまったところなどで、撮影されたのではないかという思いが見ながら胸を刺す。「おじいさんが生まれた年ににおおきな津波が来て家が流されちまってよ」などという台詞が海辺であるが、繰り返される悲劇も時は忘却させるのか。

孫のひとことに立腹して、疎遠の兄弟姉妹に世話になるからと飛び出した男を受け入れてくれる身内などはいるはずもなく、余計なことを言ったばかりに大好きなおじいちゃんを苦しめたと反省しながら、がに股でついて歩く孫娘の気持ちや、人生のやりきれなさが伝わってくる。

Harutonotabi

 

Haru1

母は不倫が父にばれて許されず入水自殺し、娘も見捨てたままの父に急に会ってみたくなって北海道へ渡り、会ってみたものの、、、、

「いちど犯した過ちってつぐなえないものなの、、人間はそんなに自分のことしか考えられないものなの、お母さんはお父さんが絶対に許してくれないとわかって絶望して岸壁から身をなげたのよ」と訴える春。

ラストは救いなのか悲劇なのか、見てのお楽しみ。


映画 春との旅公式サイト

予告篇 http://youtu.be/BLXyR5zgfzg

 

2011年7月 1日 (金)

祖母日野ヨウの五十回忌に帰郷す

 私の母方の祖母、日野ヨウの五十回忌を、従兄弟から連絡をもらって阿波徳島へ久しぶりに帰郷した。  眉山の山裾にある寺が菩提寺で、日野家の墓もこの清水寺(せいすじ)という、寺の裏山にある。

 従兄弟の坂口義富さんは今年89歳になったとか、私には従兄弟はもともと三人しかいないのだが、義富さんの弟も10数年前にみまかり、もう一人いた従姉妹は20数年前に死んで、いまは義富さんだけがちのつながった従兄弟というわけである。

 この人は小松島市役所で助役なども務めていたが、若い頃から文学活動などもやっていて、いまもいろんな文化活動、ペンクラブなどへも出席しているとのこと。

 おだやかな性格がそのまま刻み込まれた風格のそなわった老人になっていて、銀髪もまたその風貌にふさわしく味わいがある。

 祖母の墓はこの人がこの半世紀以上を大切に毎月二回は欠かさず参拝してくださったのである。  清水寺での法要には住職と本堂に並んで読経した。

 その後、義富さんの息子と孫、わが家内と妹の六人で近くのホテルの会席を接待された。

 義富さんはきちんと折り目正しく挨拶されて、今時には見かけない古風な折り目正しい老人ぶりで、ざっくばらんな私にはこうはできまいと反省させられた。

 来光寺という佐古駅の近くにある我が家の墓地にも参拝してから帰路につく。
 食事のあとすぐ運転しはじめたので、淡路に渡ったところで高速を下りて、鳴門大橋記念館というところへ珈琲を飲もうと立ち寄った。この大きな建物は、高速を出てすぐのところに位置していて、サービスエリアよりもサービスがよく、なかには立派な劇場もあり、淡路文楽も一日数回上演しているという。開幕時間にちょうどよかったので、観劇することにし、文楽の途中からiphone4で動画をとってみたのが以下の映像。

 なかなかの力演で、この地方の伝統芸だけあって、プロ芸人の技で見応えがあった。

  傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段

 

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