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2011年8月 2日 (火)

笛・港野喜代子さんの思い出 

           この記事は2000年に頼まれて書いたエッセイの再録です。


 1999年8月、お盆に入るすこしまえに家内と四国へ渡った。
 高速道路が徳島から松山まで通じているということを、そのときはまだ知らなかったので、展墓のあと、久しぶりの旧国道を走って阿波池田を越え、川之江まで走ってからやっと高速道路の標識に気づいて高速へ入るというような迂遠なことをしながら、新居浜の萩生寺へと到着した。

 萩生寺は二十数年前に私が得度を受けた寺である。
 このたび古い庫裏を潰して新しい会館を建てる工事が始まり、私が得度を受けた建物は取り壊され、瓦礫になっていた。町を見下ろす庭に亭々とした大樹があり、いままで知らなかったが、三百年を越えるという大きな貝多羅葉の木だという。

 貝多羅葉はPatraという名の音訳で、昔インドで文字を書くために使われた葉である。【葉面に掻き傷をつけると黒褐色に変わり書写の用をなした。貝多羅。貝書。】と辞書にある。日本ではめったに見られないとかで、伐るのはとてももったいない気がするが、これを残して建物を建てるという設計ではないそうで、明日には伐るのだという。壮年期の住職はなかなか思い切りよく物事を断行する。

 庫裏の台所の窓の正面に、一塊りになって繁茂していた青い縦縞の入った竹(蘇方竹・スオウチク)が、瓦礫の横に立っていたが、これも明日伐ってしまうという。この竹は住職の母親の歌人だった斎藤冨美子さんが買ってきて、ここに植えたものだという。南方系の竹の特徴で方三米ほどにまるく密集して株立ちしている。斎藤冨美子さんの植えられた記念の竹でもあり、持ち帰って笛に仕立ててみようかと、暗くなり始めた時間に、師匠が貸してくれたのこぎりで手頃な数本を切り取った。

 私がここで得度を受けたのは三十八歳のときであった。得度を受けたらそれで僧侶になったわけではなく、まず弟子となって、いずれ僧侶になるための修行の資格を師匠が認めたという沙弥の段階である。しかし以後長い年月私は沙弥から先へは縁ができなかった。年月が一巡りして、五十歳になったときにやっと機が熟して高野山に入山し四度加行という修行ができたわけである。 

 四度加行を終えてから、犬鳴山七宝滝寺という修験道の寺へ縁ができて、数ヶ月ばかりこの寺で護摩を焚くことになった。早朝五時に本堂へ入りまず一座の護摩を焚き、夕方五時まで護摩祈祷のための参拝客があると、その都度護摩を焚くのである。きつい仕事ではないが、谷間の本堂に終日缶詰めになるには忍耐力がいる。週に一日は休みをいただいて大阪へと下山した。七宝滝寺から車で山道を螺旋しながら下っていると、道路際にいつも目につく竹が数本生えていて、見るたびにあの竹を笛にしたらいいなと思うようになった。ある日車に鋸を積んでいき目当ての竹を伐ってきた。

 笛などというものは、それまでほとんど触ったこともない。ネパールでいつか土産に買ってきた横笛を一本もってはいるが、演奏などは全くできない。あの竹を笛にしようと思ったのはなにかに導かれたような一種のひらめきで、竹を伐り取って帰るや、ネパールの笛をとりだして、物差しを片手に笛の長さや吹き口や六つの音程を決める穴の位置を測ってみた。なるほど、笛の興味深い法則性が理解でき納得し感心したのである。

 笛をつくるのに必要ななんの知識も持たないながら、観測結果に興味を抱いた私は、青竹のままサンプルに合わせて切りだしナイフで穴をあけて吹いてみたところ、なんとただの青竹は笛に成長していたのであった。
「鳴った!」という最初の感激からいつか私は笛を作ることに夢中になっていったのであった。
 それ以来、笛と出会うとたいてい吹いてみるが、鳴らないなんてことはまずなくなった。
 笛に触っているとまもなく笛のこころがわかるような気がするのである。

 約束の期間が過ぎ、七宝滝寺から解放された春のある朝、港野喜代子さんの墓参を思いたち舞鶴へ車で走った。十三回忌がその前年だったように思う。舞鶴市西神崎、永春寺というところに墓地があると、編集工房ノアの港野喜代子選集の年譜に書いてあるので、行けばわかるだろうと車を走らせた。舞鶴市へ入ってから、神崎という海岸まではこんなにも遠いところにと思うほどかなりの距離があった。
 永春寺を探しあてて住職にお目にかかり、港野喜代子さんの墓の所在をうかがって車をおき、墓地のほうへ歩いていった。周りには松原がひろがり、潮騒が聞えて来る。

 昨年の卒塔婆が立っていますからわかりますと住職に聞かされていたので、その方角に行ってみると、どこにでも見かけるような墓という通念で接すると、思わず絶句するような港野喜代子さんの墓があった。ご主人のものであろうか、隣り合わせに似通った墓石があり仲良く並んでいたが、おとなの腕一抱えにもみたないふたつの自然石がぽつんと置かれてあるだけであった。

 浜の風で摩耗され消えかけた卒塔婆には港野喜代子の名前も読めたので、それとわかったが、私は思いをふたがれてしばらく立ち尽くした。

 その有り様が港野喜代子さんらしいと思ったのは、しばらくたってからのことである。
 港野喜代子さんが庭の野の花をハンケチにくるんで、高名な女流詩人の香典に持っていったという話を永瀬清子さんが思いで話として書いていたが、そういう港野喜代子さんの意思を具現化したのが、あの自然石の墓石なのであろう。この墓石にショック受けるわが俗物性よ。世の通念にしたがって、ありきたりの墓石を大金かけて作るなどは、彼女の批判精神からはでてくるはずもないのではないか。

 私は読経をするつもりでここへきたが、思いなおして、持参してきた笛をとりだした。地面にぺたんと座って石と対面し寥々たる思いで笛を吹いた。吹きながら涙がながれてやまなかった。

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