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2012年7月18日 (水)

「身・口・意」と言霊と  「どうだん」のエッセイ

 庫裡の出入り口の前の垣根が梅雨の雨で倒壊したので、杭を5本買ってきて、猛暑のなかで半時間ばかり杭打ちをしたら、汗でずぶ濡れになったので、ツイートに、

「東光寺山から下山するといきなりきつい日差しで、坊主頭にはダイレクトにきりもみの熱気でした。折れた杭を五本、打ち直して垣根を修復、たちまち大汗でシャワーにナップでいま目覚めたところです。         」

などと書いたが、目覚めて、手元の短歌誌「どうだん」を拾い読みしていたら、面識はないが、上畑ナオミさんという同人のエッセイに惹かれたので、ぶしつけながら電話をして、このブログに掲載してもいいという、了解をいただいた。

    (どうだん 76巻2・3月号)掲載の上畑ナオミさんのエッセイ

   「身・口・意」と言霊と
                      上畑ナオミ  

一、言葉遊びと記憶  

みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ

 憶えておられるだろうか、今は昔㏄年代のパイロット万年筆のCMで大橋巨泉がC調言葉でのたもうた言葉である。奇しくも57577の31音であり、C調だが押韻もあって単なる言葉遊びと切り捨てられない面白さがある。人恋しい秋に、恋文でも書いてるんだろうか。ついつい時を忘れて多くを書き連ねてしまってる自分に照れ笑いしてるような風情が伺える。
 さてC調で思い出したのはサザンオールスターズ。桑田佳祐の歌詞もすごいことになってた。たとえぱ「愛の言霊」はこんな風だ。

 生まれく叙情詩(セリフ)とは蒼き星の挿話 夏の旋律(しらべ)とは愛の言霊(ことだま) 宴はヤーレンソーラン 呑めど What Cha Cha 閻魔堂は 闇や 宵や宵や 新盆には丸い丸い月も酔っちゃって 由比ケ浜 鍵や たまや

 こうして曲は更に続くのだが、サ行で変化していく言葉から連想が広がっていく。セリフ、ソウワ、シラべ、コトダマ、ウタゲ、ヤーレンソーラン、ワチャチャ、エンマドウ、ヤミヤ、ヨイヤ、更に連想は飛んで、カギヤ、タマヤ、と夏の花火の風景に移り変わって行く。桑田佳祐の曲づくりは、曲を優先して歌詞をあとで当てはめてつくるという方法が大半で、語呂の良さが重なってハチャメチャに一つの意味をかたちづくっていくのは面白い。後半はこんな風になっている。

 遥か以前から光輝く星を見つめる時、涙ぐんでしまう 人間の存在、肉体、それらや、宇宙からの言霊を記憶するのだ 生まれく叙情詩(セリフ)とは蒼き星の挿話 夏の旋律(しらべ)とは愛の言霊ごとだま)禮(らい)!

 これで終わりではないがまだまだ続くので割愛したい。言葉に連れられて星の世界と夏の世界が呼応する。そこで実際に体験した記憶が呼び戻されたり、根源への思索へと意識は変遷していく。宇宙を祖とする原生類から人類への進化、その長い旅の間にDNAに記億されてきたものどもがこの肉体に記憶されている。韻を踏みリズムに乗ることでそれらの記憶が呼び覚まされるかのようだ。桑田の歌を聴いていると韻やリズムにはそんな機能があるように思える。

二、身体と言葉と意識
最近、空海の「声字実相義」を読む機会があり、いままで馴染みのなかった密教用語に「三密」という言葉があるのを知った。如来も衆生も平等にもっている身(身体)口(言葉)意(意識)の三種の行為形態のことをいうらしい。この「身・ロ・意」は「しんくい」と読み密教に詳しい人は常に意識しているという。身体と意識、意識と言葉、言葉と身体は、同じ力で引きあっている三位一休で、三つ巴となって高速に回転し、言葉が韻を踏んで別の言葉を召還し、リズムに乗ってくると身体と意識が活性する感覚がもたらされる。韻を意識して言葉を並べていくと、連想によって先に飛ぶ方向と、後方へ語源を遡る方向に言葉が動きだすことがわかる。たとえば「キヌサヤ」という言葉ひとつとっても両方向に言葉を検索したいという意識が動く。「キヌサヤ」は絹の鞘と書く。接頭語「さ」(=若々しい)がつくのは、絹のように繊細な「矢」のような形態から連想されたのでは、などとも思える。「さや」は「さやさや」という擬音語にもつながる、そして「さやか」(=澄んだ)にも近い。
 このようにひとつの言葉の語感を発展させたり、類義語や同義語、語源などに連想の糸を広げて行くと、組合せによって無限大に文脈は広がる可能桂を持っている。このような双方向の指向をもって意識が多面的に動き、身体的な記憶を蘇らせていくと、遊びながら言葉の差異に鋭敏になっていく。この時「身・ロ・意」は密接な関係を持っていると自覚できるのではないか。

三、新しい自我への希求
人は、生まれてこのかた刷り込まれて来た言葉とその背景を動かして言葉を操っている。しかしその背景が信じられなくなる瞬間に私たちは遭遇することもある。
 昨年の東北大震災もその契機になった。
 更に上の世代には戦中体験と終戦による打撃も大きかっただろう。

①みずかぎろひしづかに立てば依らむもの
       この世にひとつなしと知るべし    葛原 妙子

戦後すぐに歌われた歌だと聞く。空海の影響下にいる今の私が密教的に読んでみると、こんな解釈になった。

 水がゆらゆらと陽炎のような幻を見せたあと静かに一人立錘してみると、過去の業(先祖からの血や財産などでもいい)によって授けられた心身や、その心身の拠りどころとなる世間さえも自身が立つ拠りどころにはならない。このことを身をもって自覚すべきである。

 以上のように読める。決意の歌である。自分自身を育んできたものさえも疑いながら生きたい。そのための道具として歌の言葉を選んだのが葛原であった。
 彼女は、後年こんな風に詠んでいる。

②他界より眺めてあらばしづかなる
       的となるべきゆふぐれの水  

ここでもまた「しづか」という言葉が出てくるのは偶然だろうか。タ暮れにいる存在としての自分をもう一つの目で眺めていると自分の目前にある水溜りは「しづかな的」となるだろう、といっている。
 私には本当の意味はつかみかねるが、しーんと宇宙の点のような自分を身体的に意識した時、目の前にある水と自分の存在が同化し、それを葛原は「しづかな的」と名付けずにはいられなかったのではないか。「しづか」に立っている身体の自覚と「的」と名付けるものは相呼応しているようだ。身体と意識と言葉はこうして分け難く連動しつつ言葉として発せられる時、他の言葉を呼び出していく。

 葛原は、①の歌で終戦によって自我をいったん捨て、ゼロ地点から歌を詠むことで新しい自我を形成していくことを決意した。
 ②の歌ではもう一つの視占から自分を見ること(=メタ認知)で新しい自我を発見し、それを「しづかな的」と名付けたのではないか。今回の論考は断片的感想に終始していることが後ろめたいが、作歌手法を広げたい思いからこんな風になった。万葉集や新古今「の歌もおもしろい。写実に徹して象徴的に内面を表す手法がある。前衛短歌も、今の若い人たちの歌にも興味がある。そして言葉とは連綿と続いて来た歴史の手垢にまみれている場合も多い一方で、言霊がそこには潜み、新しく掘り返していく手だては尽くしてみる必要がある。身・ロ・意の三つ巴の回転によって、言霊は動くような気がする。空海を読んでいて、言霊を感じるために身・ロ・意を磨いてみる必要がある。

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